1. Bonus Track:横浜から少し離れた場所で響く歌
Bonus Track は、「YOKOHAMAの歌を読む」の本編から少し離れ、横浜の歌をめぐる周辺的な話題や、歌の背景に潜む別角度の物語を取り上げる寄り道の章である。 本編では触れきれない視点や、横浜の音楽文化を読み解くための補助線となるエピソードを、気軽に楽しんでいただきたい。
今回はネットで目にした玉木正之氏による浅川マキの追悼原稿がきっかけだ。浅川マキは2010年1月17日に亡くなった。横浜ゆかりの歌は特にないが、彼女にまつわる記憶と横浜の“外側”から見た文化の話として、Bonus Track として取り上げることにした。
2. 浅川マキ「夜が明けたら」との出会い
1969年、ラジオからウッドベースのイントロが流れ、「夜が明けたら」が始まった。浅川マキのデビュー曲である。 当時の私は中学生で、ビートルズなどのポップスばかり聴いていたから、彼女の歌は無愛想で重く感じられた。それでもヒットしたのだろう。ラジオで何度も耳にし、そのたびに「またこの曲か」と思った記憶がある。
3. 個人的な記憶としての浅川マキ
特にファンというわけではなかったが、高校に入ってから彼女のセカンドアルバムを買った。A面トップの「少年」が好きで、よくハーモニカで吹いていた。 ある日、教室でLPをカバンにしまっていると、普段ほとんど男子と話さないおとなしい同級生の女の子が「貸してくれない」と声をかけてきた。意外な子がファンだったのだと驚いた。もちろん気持ちよく貸した。
4. 新宿アンダーグラウンドと“理屈っぽい時代”
浅川マキは寺山修司のプロデュースでデビューした。 「アングラ」という言葉が新宿に独特の磁力を与えていた時代である。 彼女は、当時の“理屈っぽい大学生”たちから強い支持を得ていた印象がある。 理屈っぽい高校生だった私は、遠い横浜から新宿を憧れのまなざしで眺めていた。
5. 矢作俊彦の痛烈な視線──「夜が明けたら」をめぐる批評
矢作俊彦のエッセイ「OUT OF BORDER」は、こんな書き出しで始まる。
「この町を出て行くんだよ」と、彼は言った。(中略) 「昔、そんな歌があったぜ」と、私は隣の大男に言った。 「夜が明けたら、いちばん早い汽車に乗って、この町を出て行くってのさ」 「あの女が歌った町は新宿だ。定置網にひっかかった鰯みたいな百姓女が新宿のドブを出て行くって歌だ。 一緒にしないでくれ」
この辛辣な言葉に、私は少し驚いた。浅川マキは批判されることが少ないアーティストだと思っていたからだ。
6. 浜っ子のプライドと“横浜という境界”
このエッセイは『複雑な彼女と単純な場所』(新潮文庫)に収められている。 矢作俊彦は1950年横浜生まれで、このエッセイ集には「私たちは、一般的に中区以外の場所を横浜とは呼んでいなかった」というフレーズなど、浜っ子の強烈なプライドが随所に現れる。
引用したエッセイにも、大男が中区から磯子区へ転居するというオチがついている。 横浜の“境界”意識が、浅川マキへの批評にも影を落としているように思える。
補記:
小松左京にも「夜が明けたら」という短編がある。浅川マキとは無関係だが、救いのなさや暗いムードがどこか共通している。 良い短編で、同題のハルキ文庫で読むことができる。
「少年」の作詩・作曲は浅川マキ自身によるもので、アレンジを変えて A 面のラスト(6 曲目)にも収録されている。アルバムの中でも特別な位置づけだったのかもしれない。彼女の作品には、どこか“自分の影”をそっと置いていくような曲があるが、「少年」もその一つだと感じる。
ハードボイルド小説については、何度かレイモンド・チャンドラーに挑戦したものの、どうしても作品世界に入り込めなかった。村上春樹訳でも同じだったが、矢作俊彦氏の『リンゴォ・キッドの休日』はすっと読めた。著者紹介に「元ピンカートン探偵社横浜支局勤務」とあり、思わず膝を打った。ダシール・ハメットの経歴をなぞるような設定で、文章以外の佇まいまでスタイリッシュな作家だと思った。
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